白瀬 矗 について

・白瀬 矗/しらせ のぶ
・文久元(1861)年6月13日 - 昭和21(1946)年9月4日
・出身/秋田県由利郡金浦(このうら)村(現 秋田県にかほ市金浦)
・役職/南極探検隊 隊長
・経歴/以下「生涯」をご覧下さい

 

浄蓮寺の腕白少年、11歳で極地探検を志す

白瀬矗(幼名・知教/ちきょう)は、文久元(1861)年6月13日、秋田県にかほ市金浦(このうら)にある浄蓮寺の長男として生まれました。少年時代の矗は、可愛がっていた子犬を噛み殺した狼を鎌で一撃のもとに撃退したり、千石船の底潜りに失敗して危うく死にかけたり、近所でも評判の腕白少年でした。

佐々木節斎(せっさい)先生の5つの戒め。

11歳の矗は、寺子屋の佐々木雪斎先生から「北極」の話を聞き、探検家を志します。先生は矗に探検家を志すなら5つの戒め(酒を飲まない 煙草を吸わない 茶を飲まない 湯を飲まない 寒中でも火にあたらない)を守り、初志を貫けと教えました。矗は、生涯この5つの戒めを実行しました。

探検を実現するため、僧職をはなれ、軍人となる

明治12(1879)年、「僧職になっては探検ができない」と軍人を目指し、日比谷の陸軍教導団騎兵科に入団し、矗(のぶ)と改名しました。

千島探検へ

 明治26(1893)年、将来の北極探検に備えて、まず千島探検を目指し、郡司成忠海軍大尉(文豪 幸田露伴の実兄)の一隊員としてこれに加わります。8月、最北端の占守島(しゅむしゅとう)に上陸、穴居生活の準備に入ります。
ずさんな探検計画のため越冬生活は悲惨でした。幌莚島(ぱらむしるとう)と捨子古丹島(しゃすこたんとう)の10人が全員死亡。明治27(1894)年6月28日、郡司は軍艦「盤城(ばんじょう)」で占守島を去り、白瀬は交代要員の5人とともに引き続き越冬生活を続けます。明治28(1895)年、占守島での2度目の越冬生活中、6人のうち3人が水腫病(壊血病)で死亡。8月21日、北海道庁長官の命で派遣されてきた「八雲丸」にようやく救出されました。

北極探検を断念し、南極を目指す

明治42(1909)年、白瀬はアメリカの探検家ピアリーが4月6日、北極点の踏破に成功したことを新聞で知り、大きなショックを受けます。白瀬は、探検の目標を北極探検から南極探検へと180度転換することになります。

南極探検に関する請願書を提出

明治43(1910)年1月、白瀬は、第26回帝国議会に「南極探検ニ要スル経費下付請願」(10万円)を提出します。これに対して、帝国議会は議決(3万円で議決)したものの、政府は結局援助金を全く支給しませんでした。スコット(イギリス)やアムンセン(ノルウェー)の南極探検が政府の援助で行われたのとは大きな違いでした。

南極探検後援会が発足。日本中に熱狂的な反響

7月5日、「南極探検後援会」を設立し、大隈重信伯爵が会長となりました。

「開南丸」と命名。11月29日東京芝浦を出航

11月21日、「第2報效丸(だいにほうこうまる)」を東郷平八郎元帥によって「開南丸(かいなんまる)」と命名し、18馬力の補助エンジンを装備して、品川沖で試運転が行われました。
11月29日、「開南丸」芝浦出航。

ニュージーランド・ウェリントン入港。氷塊に阻(はば)まれ、シドニーに戻る

明治44(1911)年1月31日、ニュージーランドの島影を確認。
2月8日飲料水や石炭・生鮮野菜・肉などの食糧を補給するため、ウェリントン港に入港。11日には出航しています。
3月14日、南緯74度16分、ロス海コールマン島付近で、氷塊に前進を阻まれ、やむなくオーストラリアに引き返します。
5月1日、オーストラリア・シドニーに入港。一時はスパイ船の嫌疑を受けますが、無事上陸。シドニーで仮小屋とテント生活を送りながら、南極の夏を待ちます。

シドニー出航、南極に到着

明治44年11月19日、探検の目的を南極点踏破から科学調査に変更し、シドニーを出港。
 12月14日、アムンセン隊(ノルウェー)が前人未踏の南極点を遂に踏破。
明治45(1912)年1月16日、開南丸は南極ロス海ホエールベイ(鯨湾)に到着。
 1月17日、スコット隊(イギリス)も南極点を踏破。帰途、全員遭難死。

南極点に向かって出発、走行9日で力尽きる

明治45年1月20日、白瀬隊長ら5名の突進隊は、28頭の犬が引く2台の犬ゾリで南極点に向かって出発しました。氷点下20度前後の厳しい寒気とブリザードのなかで、2台のそりが離れ離れになったりする事故に見舞われ、走行9日、走行距離282キロの地点で遂に力尽きます

南緯80度05分に日章旗、大和雪原(やまとゆきはら)と命名

明治45年1月28日、未明に氷原突進を中止した白瀬探検隊は、午後0時20分、南緯80度05分、西経156度37分、一同は整列して日章旗を立て、視野に入る全地域を「大和雪原(やまとゆきはら)」と命名し、日本領土とすることを宣言しました。

「開南丸」帰国、盛大な歓迎をうける。

明治45年2月、探検隊は帰国の途につきました。
6月20日、「開南丸」が述べ48,000キロ、1年7ヶ月近くにわたる長旅を終えて芝浦に到着しました。歓迎式には、約50,000人の熱狂的な市民や学生などが集まりました。

探検のその後

探険の総費用は120,000円から125,000円余りと推定。一般から集めた募金の総額は71,800円に過ぎず、40,000円近く(現在の1億円ほど)の借金をすべて白瀬が背負うことになります。
白瀬は極地で撮影したフィルムをたずさえ、日本本土をはじめ遠く樺太(今のサハリン)、朝鮮半島、旧満州、中国上海、台湾まで足を運びました。南極探検を終えたあとの白瀬の後半生は、借金返済のための苦難に満ちた果てしなき旅の連続だったのです。借金を返し終えたのは昭和10年、白瀬は74歳になっていました。
昭和21(1946)年9月4日、午前9時、白瀬矗は間借り先の愛知県西加茂郡挙母町(現豊田市)鈴木鮮魚店の2階で、腸閉塞のため死去します。(満85歳)


辞世の歌
「我れ無くも 必らず捜せ 南極の 地中の宝 世にいだすまで」

 

※参考資料
渡部誠一郎/著『よみがえる白瀬中尉』(秋田魁新報社、1982)
白瀬京子/著『雪原へゆく 私の白瀬矗』(秋田書房、1986)