南極探検について

人類が南極大陸を発見したのは1820年のことでした。
1830年代~1910年代にかけ、北極・南極という二つの極地への関心が高まり、各国の探検家が極地探検を志しました。 日本では、江戸時代に最上徳内(宝暦4 - 天保7)や間宮林蔵(安永9 - 天保15)が蝦夷地・北方探検を行いましたが、明治維新という激動の時代においては、極地探検まで目が向けられませんでした。
白瀬 矗(しらせ のぶ/文久元 - 昭和21)は、少年時代に師から北極探検の話を聞いて探検家を志しました。しかし、明治42(1909)年、アメリカの探検家ロバート・エドウィン・ピアリー(Robert Edwin Peary/1856 - 1920)が北極点に到達したことを知り、目標を南極へ転換します。彼は明治43(1910)年11月29日、南極探検隊隊長として「開南丸」で東京芝浦を出航、南極へ向かいました。
ライバルは、ロアルド・アムンセン、ロバート・ファルコン・スコット

 

当時は世界中が人類初の南極点到達をかけ、南極に探検隊を送っていました。白瀬の主なライバルは、ノルウェーのロアルド・アムンセン(Roald Engelbregt Gravning Amundsen/1872 - 1928)、イギリスのロバート・ファルコン・スコット(Robert Falcon Scott/1868 - 1912)でした。
南極点到達レースはアムンセンに軍配が上がり、白瀬は南極点に到達するまえに力尽きますが、南緯80度05分、西経156度37分の地点を「大和雪原(やまとゆきはら)」と命名し、隊員全員が無事帰還しました。
その後、日本はしばらく南極調査から遠ざかっていましたが、昭和32 - 33(1957 - 1958)年の「国際地球観測年(International Geophysical Year, IGY)」に白瀬らの実績を踏まえて参加を主張、承認されます。昭和31(1956)年11月8日には東京晴海ふ頭から「宗谷」が出航し、南極観測の歴史に幕が上がりました。
そして白瀬らが南極大陸に足を踏み入れてから半世紀以上たった昭和43(1968)年、村山 雅美(むらやま まさよし/大正7 - 平成20)隊長が率いる第9次越冬隊は、日本人で初めて南極点に到達しました。当館にはその時に使用した雪上車KD-605が展示してあり、2014年機械遺産に認定されました。

南極探検関連年表

元号
(西暦)
白瀬矗と南極探検隊年表 関連する出来事

弥生時代
(bc530)

  ピタゴラス(ギリシャ) 地球が丸いことを推算。

戦国時代(1519~22)

  マゼラン(ポルトガル/スペイン) マゼラン海峡発見。南米と南極大陸の一体説を否定。

江戸時代
安永元
(1772)

  ジェームズ・クック(イギリス) 南極大陸一周。1773年1月17日南極圏突破。

安永年間
(1775頃~)

  英・米両国を中心に、ミナミオットセイ(毛皮アザラシ)猟が始まる。約50年で絶滅にいたる。

文政
2~4
(1819~21)

  ファッツデイ・べリンスガウゼン(ロシア)クックよりも高緯度で南極大陸一周。1820年1月に東経0度付近で、南極大陸(棚氷)を遠望。この頃、南極大陸先端部を英・米のアザラシ船も遠望する。

天保
9~11
(1838~40)

  デュモン・デュルビル(フランス) アデリー・ランド発見、領土宣言。妻、アデリーの名を取って、棲息するペンギンをアデリーペンギンと命名。

天保
10~14
(1839~43)

  ジェームス・ロス(イギリス) ロス海、ロス棚氷、ビクトリア・ランド、マクバード入江、エレバス火山などを発見。
文久元
(1861)
6月13日 秋田県由利郡金浦(このうら)村(現 にかほ市金浦)浄土真宗・浄蓮寺13世住職白瀬知道・マキヱの長男に生まれる。幼名は知教。  

明治2
(1869)

近所の医者佐々木節斎の寺子屋に入る。(満8歳)節斎から「北極」の話を聞き、探検家を志して「5つの物断ち」(酒、たばこ、湯、茶、寒中の火)を始める。  

明治12
(1879)

7月 上京し、浅草本願寺境内にあった小教校に入学。
9月 陸軍教導団騎兵科に入団「矗(のぶ)」と改名。

 

明治14
(1881)

3月 陸軍教導団騎兵科卒業。仙台鎮台に赴任  

明治
15~16
(1882~83)

  ドイツ隊 第一回極年観測(1882年8月1日~1883年8月31日)のため、サウスジョージア島で越冬。

明治20
(1887)

7月 仙台市二日町の海産物問屋だった菅原長兵衛・たまの長女やす(明治5年8月8日生)と結婚。  

明治23
(1890)

この年の秋、仙台の第二師団で行われた機動演習の際、児玉源太郎将軍(当時少将)の知遇を得る。  

明治26
(1893)

6月 将来の北極探検に備えて郡司成忠海軍大尉の「千島探検隊」に加わり、最北端の占守島(しゅむしゅとう)に上陸して穴居越冬の準備に入る。  

明治27
(1894)

越冬生活中に、幌莚島(ぱらむしるとう)と捨子古丹島(しゃすこたんとう)の10人が全員死亡・行方不明。  

明治28
(1895)

8月21日 北海道庁長官の命で派遣されて来た函館のラッコ狩猟帆船「八雲丸」によりやっと救出される。  

明治
30~32
(1897~99)

  アドリアン・ジェルラシ(ベルギー) ベルジカ号で南極半島西側を調査中、氷に囲まれ13か月漂流。

明治
31~33
(1898~1900)

  カールステン・ポーヒグルヴィンク(イギリス) 南極大陸で初めて越冬(アデア岬)、ニコライ・ハンセン隊員が1899年10月に死亡、同地に埋葬。

明治35
(1902)

  1月 ロバート・スコット、アーネス・トシャクルトン、エドワード・ウィルソン(イギリス)が初めて本格的に南極点到達を試みて4960㎞を踏破。南緯80度の地点で引き返す。

明治37
(1904)

6月 日露戦争で、弘前の第8師団衛生予備廠長(しょうちょう/少尉)として遼東半島へ。  

明治38
(1905)

日露戦争で「黒溝台の会戦」に参加。中尉に任官。  

明治40~42
(1907~09)

  アーネスト・シャクルトン(イギリス) ロス島のロイズ岬で越冬。エレバス火山登頂。南緯88度23分に到達。デビット教授ら三人が南磁極域に到達。

明治42
(1909)

9月8日 白瀬は新聞でピアリー一行が5ヶ月前の4月6日、北極点の踏破に成功したことを知り、それまでの北極探検を南極探検に180度転換する。 4月6日 ピアリー(アメリカ)が人類で初めて北極点の踏破に成功。

明治43
(1910)

1月 白瀬はスコット大佐と南極点レースを争うことを決意し、元宮城県知事千頭清臣(ちかみきよおみ)らのアドバイスにより第26帝国議会に「国土領域ノ拡大ト国ノ富強」の見地から「南極探検ニ要スル経費下付請願」を提出。
5月下旬、東京毎日新聞と萬朝報が白瀬の南極探検計画を報道。
7月5日 東京・神田錦輝館で南極探検発表演説会が開かれ、超満員の盛況。この日のうちに大隈重信伯爵を会長とする南極探検後援会が発足。朝日新聞社は5,000円を出したうえ、資金募集の協力を約す。
7月16日 秋田魁新報社が義金募集の社告を掲げる。
11月21日 18馬力の補助エンジンを装備した開南丸(東郷平八郎元帥命名204トン)が品川沖で試運転。

11月28日 芝浦埋め立て地で盛大な送別式。開南丸が実際に品川を出帆したのは翌29日だった。

明治44
(1911)

  12月14日 ロアルド・アムンセン(ノルウェー) ホエール湾で越冬の後、アムンセン隊5人がが前人未踏の南極点をついに踏破。

1911年~1914年 ダグラス・モーソン(オーストラリア) デニソン岬(東経143度)シャクルトン棚氷(東経95度)で2隊が越冬。沿岸と内陸を調査。

明治45
(1912)

1月16日 午後10時、開南丸が南極ロス海ホエール湾に到着。
1月26日 開南丸は南極東方洋上、南緯76度06分、西経151度20分まで回航する。
1月28日 午後0時20分、南緯80度05分、西経156度37分に「日章旗」を立て、一帯を「大和雪原(やまとゆきはら)」と命名。
2月4日 開南丸はホエール湾を出帆、帰国の途に。

6月20日 開南丸、延べ48,000キロ、1年7ヶ月近くにわたる長旅を終えて1人の死者も出さず芝浦に到着。

1月17日 ロバート・ファルコン・スコット(イギリス) ロス島のエバンズ岬で越冬後、スコット隊ら5人も南極点に到達。帰路遭難。

大正2
(1913)

1月 東京・博文館から『南極探検』を出版。 秋、開南丸が千島から台湾へサケを運んでの帰途、和歌山沖で座礁沈没。  

大正3~6
(1914~17)

  アーネスト・シャクルトン(イギリス) 英帝国南極横断探検隊としてウェッデル海に入ったシャクルトンのエンデュアランス号は、氷の圧力で沈没。シャクルトンら6人はボートでサウスジョージア島へ渡り、結局全員が救助された。

大正11
(1922)

10月1日 『北極から南極へ』を東京・明治図書KKから出版。  

昭和2
(1927)

6月21日 南極の征服者アムンセン(ノルウェー)と東京で会見する。  

昭和3~5
(1928~30)

  リチャード・バード(アメリカ) ロス棚氷(ホエールズ湾)にリトル・アメリカ基地を建設。1929年11月29日 航空機による探査と極点飛行を成功。

昭和8
(1933)

11月 米国地学教会が「大和雪原(やまとゆきはら)」「開南湾(かいなんわん)」「大隈湾(おおくまわん)」を公認。  

昭和9
(1934)

9月5日 郷里の金浦・沖の島公園に金浦文化協会が拓務相永井柳太郎揮毫の「日本南極探検隊長白瀬矗君偉功碑」を建立。 日本は初めて南太洋捕鯨開始。(ノルウェーの母船アンタークチック号購入:図南丸)捕獲数:31,808頭

昭和11
(1936)

11月28日、探検25周年に当たり、三宅雪嶺らが芝浦埠頭公園に「南極探検記念碑」を建立。 1936~1937年 ラルス・クリステンセン(ノルウェー) トルスハウン号搭載の水上機からプリンス・ハラル海岸(現:昭和基地)の空中写真を撮影。1946年に地図化。

昭和14~16(1939~41)

  米国南極軍務探検隊(アメリカ) バードが指揮をとり、領土権主張のための永久居住を東西両基地で開始。第二次世界大戦で中止。

昭和15
(1940)

教育勅語50周年に当たり、文化に功労のあった者として文部省から表彰。  

昭和19
(1944)

8月18日 郷里の金浦に疎開。  

昭和20
(1945)

9月26日 埼玉県片山村の自宅に引き揚げる。  

昭和21
(1946)

9月4日 午前9時、腸閉塞のため死去。(満85歳) 1946~47年 バードが指揮する米国海軍南極発展計画で南極探検史上最大の機材、人員、航空機、艦船を動員した寒冷地行動「ハイジャンプ作戦」を実施。

昭和20~21
(1947~48)

  フィン・ロンネ(アメリカ) ストニントン島(米国東基地)で、女性2人の世界初の越冬。

昭和27
(1952)

  国際学術連合(ICSU)が南極観測に重点を置く国際地球観測年(IGY:1957年7月1日~58年12月31日)の計画を立案。

昭和31
(1956)

  11月8日 第1次南極観測隊が海上保安庁の「宗谷」で出発。海鷹丸が随伴。

昭和32
(1957)

3月 生家の白瀬知燈住職(甥)が愛知県吉良町・西林寺から伯父矗の遺骨を分骨。

1月29日 昭和基地の建設が始まる。11人が越冬観測。

7月1日 国際地球観測年(IGY)が始まる。南極と亜南極の基地は、12か国、総計55か所。

昭和33
(1958)

10月4日 愛知県吉良史蹟保存会が、西林寺に「南極探検隊長大和雪原開拓者之墓」を建立。

12月 金浦町で浄蓮寺境内に墓碑建立
日本隊、宗谷が基地に近づけず、1958年の越冬観測を断念。

昭和34
(1959)

  12月1日 ワシントンで日本を含む12か国が南極条約に署名。1961年6月23日に発効。以後日本は現在まで南極の観測を続行。

昭和35
(1960)

11月29日 白瀬中尉南極探検50年記念切手発行される。  

昭和40
(1965)

  2代目南極観測船「ふじ」が就航。

昭和43
(1968)

  村山 雅美(むらやま まさよし)隊長が率いる日本の第9次越冬隊は、陸路、日本人で初めて南極点に到達する。

昭和58
(1983)

  3代目南極観測船「しらせ5002」が就航。

平成21
(2009)

  4代目南極観測船「しらせ5003」が就航。

平成22
(2010)

白瀬日本南極探検隊芝浦出航100周年  

平成23
(2011)

白瀬中尉生誕150周年  

平成24
(2012)

大和雪原到達100周年  

※参考資料
渡部誠一郎/著『よみがえる白瀬中尉』(秋田魁新報社、1982)
白瀬京子/著『雪原へゆく 私の白瀬矗』(秋田書房、1986)